昭和五十年十二月十四日 御理解第十八節


 「此方のことを神々と云うが、此方ばかりではない。此処に参って居る人々が皆神の氏子じゃ。生神とはここに神が生まれると云うことで此方がおかげの受け初めである。皆もその通りにおかげが受けられる。」


 御教えに、疑いを離れて広き真の大道を開き見よ。我身は神徳の中に生かされてあり。と御神徳の中に生かされてある私、その事実を私共が分からして貰うと云うこと。
 そこから今日の御理解を頂かなければ、分かっただけではいけません。成程私共は天地の親神様の、いわば氏子として分霊としてこの世に生を受けて、それがわが身は神徳の中に生かされてあることも何も分からずに、只我情我欲を云うて御恩恵の中に浸り浴して居りながらそれをそれと感じないで、只我情我欲だけが身に付いてきたというところだけに、所謂生神金光大神皆もその様におかげが受けられると仰る様にそれが受けられない。隔たりと云うものが出来て来たのです。
ですから金光大神は、生神とはここに神が生まれると云うことであってと云う風に表現して居られます。そういう我情我欲いっぱいで成長のおかげを頂いて今日の私共がです、まあ神様とは似ても似つかない心の状態が広がっておる。そういう状態が我情我欲のかたまりの様な人間になって仕舞って居るけれども、ひとたび心を神様に向けさして貰うて、またの御教えに、神は向かう倍力の徳を授けると言われるが、私共が神に向かうと云う事は、神様をね、おかげを頂くために向かうと云う様な、例えばお参りをすると云う様なことで神様は向かう倍力の徳を授けて下さるのじゃない。
 云うならば無条件で神様に向かうということ。無条件での御用が出来ると云うこと。
 まあ昨日は十三日会でしたから皆さん御用日として朝から御用を頂かれておる。その御用の頂方当り方と云うものがです、無条件、所謂真の心です。で向かうときに、私はそこに喜びが頂けれる。不思議に感動が湧いて来る。吾が心に神を感ずる。生神とは此処に神が生まれると云うことであってと云うことはね、そういう時に感ずる信心の喜びと云うものがです、既に神が生まれたのです。
 だから私共がそういう神様への向い方、無条件の例えば神様への向い方と云った様なものが時折にでも自分の心に感じられる、いや時折でもそういう無条件の御用、無条件の神様へ打ち向かう事が出来るところに生まれて来るのが生神である。 神がここに生まれると云うこと。
 生神とは白髪を生やした雲か霞を食べて居られると云う様な方ではなくて、わが心に生まれる。生神とはここに神が生まれる、そこに心に生まれるところの働き。心に神が生まれ心に神を感じられる稽古が信心の稽古です。それが段々心に感ずる、わが心に誕生された神様を育てて行くと云うこと。云うならば有難いなあ、勿体ないなあ、どこから湧いて来るか分からんけど有難い。そういう心を育てて行くと云うことがとりも直さず金光様の信心だと云うことになるのです。
 その証拠には一生涯信心しておると云う人でも、なら御神徳を受けたとか神様を心に感じたと云う人が極少ないでしょう。それは条件があっての神様への向い方であり、例えば神様へ向かうでも御用すりゃ助かると云う一つの云う、言い方をする人達があります。またその事実が無い事もありません。
 けど、そこには一つの条件がある。まあ日々おかげ頂きよるけん、月に一辺十三日位はまあ御用に行かにゃ、まあ気の毒かと神様に対しても済まんから御用すると云った様なことではない。御用と云うのは何処までも無条件、所謂真心。
 昨日その十三日会で朝から御用を頂いた大和さんが、畳屋さんです。毎年この十二月の十三日会には私の部屋のすぐ南側にある蘇鉄苑がございます。沢山大きな蘇鉄が植っとりますから、この霜が下りる頃になるとあれを綺麗に藁で囲むのです。所謂防寒ですね。
 それをいつも大和さん、高田さん辺りの器用な方達がいつもなさいますけど、いつも二日位かかる。それももうそれこそ、お菓子のごと綺麗にされますね。そのことを昨日十三日会で発表しとられました。今年も蘇鉄を包む時期が来たと思うとりましたた、先日から近所の方が藁を貰うて呉れと云われる。それでその貰われた藁が綺麗な藁である。沢山なことですね、そのあれを全部包むのですから。 それが昨日使わせて頂きましたら、丁度その蘇鉄を包ませて頂くだけあった。少し余った位であった。その藁を頂いて家で綺麗に選らなければいけません。あの縄をなう時の様に綺麗に藁を撰ってそしてこの十三日の御用の時に蘇鉄を包ませて貰う。その藁をやはり準備丁度頂いた。これを準備して朝からそれを持って見えて御用に当たられた。
 次々と見えられる方達が一緒に御用して下さって昨日私達が親教会の御大祭を頂いて帰ってきたときにはもう綺麗に出来上がっとった。手が揃うた。私はその感動を昨日話して居られました。所謂前々からの願い、前々からのその御用に対する思い、しかも藁を撰ったり色々の手を煩わさねばならんのですけれども、その事がもう無条件に出来ておるところに、神様も又無条件にその働きに神様が参画して居られると云う様な感じがするのです。無条件の例えば真心を込めた御用をさせて頂こうと人間氏子が思いをそこに起こした時にです、神様の方が今度はその働きに参画して神様の方がその御用に預からして下さいと云う様な感じがする。第一藁を貰うて呉れと云う人がある。しかも立派な藁である。それを撰らせて頂くところには大和さんの御用である。それを合楽まで運ばせて貰うていよいよその事を朝早うから掛からせて貰う様になったら、専門家のいわゆる植木屋さんです、高山さんが見えた。誰が見えた、彼が見えたと云うて手が足ろうて来たところには私は神様が参画してござると云う感じがするです。
 云うならば氏子と神様とが一緒になって、所謂共同体をもってその蘇鉄苑の防寒準備されたと云う感じの中に御用が頂かれ終られて午後からの研修の時には丁度その間に合う様に、そんなわけで皆さん大祭から帰られて、して頂いてからの方もありましたから、時間がいつもより大分遅れました。
 その頃には綺麗に後片付けも出来まして一緒に研修会に参加してその事を発表して居られるのを頂いてから本当に有難いことだなあ、尊い事だなあと思わして頂いた。
 私共が神様の働きに参画させて頂くと云われとりますがです、氏子が真心で無条件で御用に当たる時に神様の方がその御用に参画して頂く事が感じが致します。その感動こそが大和さんの心の中に生神が生まれた姿だと私は思うです。
 その事がです、教会だけの事でない、お仕事の上にも対人関係の上にも生活全体がその様な在り方にならせて頂くときに大和秀広と云う人の上に神様がいつも参画し給う。それをなら私共は一分一厘間違いの無い御働きの中にあるなと思わして頂いて、成程わが身は神徳の中に生かされてあるなと云う事実を日々感じながら生活をして行くことが出来るのであります。
 神様を使うなどと云う思いは更に無い。神様の方から使われて下さる。だから四神様のみ教えの中に、神の用を氏子が足せば氏子の用は神が足してやると仰る。
 そこで神様が私共の仕事はして下さるから、こちらは神様の御用をしておけばよかと云う様に条件があったんでは駄目なんです。
神は生まれないのです。神の用をすれば氏子の用は神がしてやると仰るのは、氏子が神様の用を無条件で真心でさして貰うところに神の参画があるのである。神が生まれると云うのはそういう関わり合そういう交流そこから生まれて来るのです。
 神様と私共が交流する。そこに信心は真心が求められる。無条件が求められる訳であります。こん位のことをしてやっとけば、神様がそれくらいの事はして下さると、成程戻しなさるかも知れませんけど、そこには神は生まれんのです。
 神は向かう倍力の徳を授けると云うことは、おかげ頂くために幾ら頑張ってお参りして来たっちゃ、それでおかげは受けても大徳を受けることにはならない。
 神に向かう倍力の徳を受ける程しの向い方と云うのは無条件であり、真心であらねばならないのでございます。だからその無条件とか真心とかと云うことの追求がなされる訳であります。
 昨夜いつも十二時頃夜の御祈念にここに出て参りました。そしたら、一生懸命それこそ大祓信行をやっておるのが〇少の子供達です。この頃毎晩若い方達が一生懸命もう皆が寝静まった後にここへ心行、今合楽では表行、形の行と云った様なことは全廃、もう絶対その様なことはしてはならないと云う事に私が申しておりましたので、もう心行一途だ、もう心行一つだと。
 昨日の研修会の中で頂きました、この中での事でしたけど、心行と云う事は非常に難しい。表行よりも難しいと云う風に云われとりますが、私はもう手近なところから心行はさして頂くべきだと
 ”心行とは心を大切のすることだ”と頂きました。
 心行とは自分の心を大切にする。汚さない用に傷つけない様に、いや傷付いたらすぐ癒すそう、心が汚れたらすぐ清めようと云う様にです、心を大切にして行く精進こそが心行であります、ね。
 心の行です。云うならば心行とは不平不足を言うてはならん。心行とは暑い寒いを言うてはならん。暑い寒いと云う事は、自然に起きて来る様々な事柄、暑い寒いでもありましょう。様々な神様が自然に起きて来る事柄の中にも不平不足を言うてはならぬ。その言わんで済む心が心行なのです。それに精進することが心行の芯になるのです。
 ですから、成程心行とは和賀心を大切にする事なのです。ところが汚れる、ところが傷つく。そこで傷ついた心はすぐ癒そうとする心が心行である。
 汚れたと気が付いたらそれをすぐ清めようと云う心の使い方。それが心行なのである。もう心行と云うことは本当に素晴らしいです。 昨日の〇少の人達は薄暗いから一人一人の親は見えませんけれども、五人位そこに座って一生懸命大祓奏上やってる。
 私は本当に有難いと思うんですけど、私がこの心行と只自分がおかげ頂かんなんために一生懸命に大祓を上げるというものじゃいかん。そりゃ痛い痒いのことから牛馬のことに至るまで実意を持って願えと仰るから、また願わなければ神様も淋しゅうあんなさろうと思う、ね。 もう何も神様にお願いすることはありませんと云うなら、神様も淋しい。やっぱり何から彼までそれこそ願わせて頂いてこそ、神様も又喜んで下さる神様です。
 けれども神様へ向かうというその時には、自分の我情じゃない、我欲じゃない、只無条件に神様へ向かう一つの手掛かりとして手立てとして、最近表行が無いのですから、心行が、心行は有難いけれども、ごまかそうと思えば目に見えない行ですからごまかしが出来る、ね。
 例えば、毎日毎日お水を頂くといった修行をしよる。こりゃもう形ですからすぐ分かる。けど心でする行は、しよりますと云えばしよりますで済む訳である。勿論神様は見逃しよんなさいませんけど。 目に見えない神様を、在るやら無いやら分からん自分の心に体して行く、向かうて行くと云うのですから、もうごまかそうと思うたら何程でもごまかせる。それこそ、神様だけ御承知の世界に生き抜いて行こうと云うのだから、しかも信心で生き抜こうと云うのだから、しかも真心で生き抜こうと云うのだからそれが信心なんだ。
 私は昨日子供達がそうして一生懸命大祓信行をさせて頂いとるのを見てからふと不安に感じたことがある。
 昨日十三日会で私は皆さんにこの話が出ましてから最後に、今只朝晩の御祈念はいつもしよんなさったろうけれども、無条件で願うこと、頼むこと、お礼申し上げることの御祈念はしよんなさったろうけれども、もう無条件で神様と交流する歓び、神様と通う楽しみ、御神前に座っておって大祓を一巻二巻段々上げて行って居る内にです、もう立とうごとなく有難くなるような気持ちを求めて大祓信行をさせて頂こうと私が言い出しましたら、もう皆さんがそれこそ今日の〇少、青年の方達は勿論のこと、皆さんがその事に一生懸命になっとられる。
 昨日も私は皆さんにその信行をなさっとられますか手を上げて下さいと云うたら、ほとんどの方が手を上げられました。そりゃ十三日会だけにしか見えないまだ合楽でそれを云うて居ることを知らない人がいくらもあります。そういう人は、人達は勿論知りませんから手を上げませんでしたけれども、合楽に私はこの話を皆さんに聞いて頂くようになりましてから、まあ十日余りにもなりましょうか、今度の方達はもう殆どの方達がやっていると云うて手を上げた。  私はもう云う事はないと言いました。もう合楽の信心がこうして固まって行くなら、どういう神様に喜んで頂くような大きな力になるか分からない。
 あれば貰わんならんけん合楽に行きよる。これば貰わんならんけん合楽に行きよる人達が何千万集まったところで大したことはない。 けれどもです、神様と交流する事の楽しみ、神様と交わることの楽しみ、しかも無条件にです、大祓信行でもさせて頂く人達がです、こんなに沢山居られるならばです、もう私は言うことはない。只問題はこれを辛抱し抜かせて頂いて途中で落伍しない様にと云う事だけをまあ申しましたことでした。 先生が言いなさったけん、一月ばかり続けましたけれどもと云うのではなくて、それこそ十年とそういう信心が続いたら、もう本当に我ながら我が心が奉られるようなおかげが頂けれる。力が受けられる。私はそう確信するです。
 私がその子供達の信行ぶりをここから見させて頂いてです、まあ云うなら子供には出来過ぎとるけど、神様はこげんやって拝みさえしよりゃ、学校に勉強でん何でんせんでんよかちゅう位になりだんせんじゃろうかと思いましたです。私は夕べそう本当に・・・
 信心と云うものは決してそんなもんじゃないです。拝みさえ居りゃおかげは向こうの方から、落ちて来る棚からボタ餅のごと思うとりゃせんじゃろうか。決してそんなもんじゃないです。そげなこっちゃでけんです。そういう信行させて頂くようになって、心がです、本当に例えば有難いと云うか、清き心というか、そういう心で勉強に取り組まんならんのであり、そういう心で家業に取り組まなきゃならん。だから今迄二つしか出来なかったのが三つ出来る様なおかげになって来るのです。今迄五時間働きよったのがそういう心で働くから、ね。六時間もそれこそ時は徳を成しと云われる位ですから、その時をいよいよ大事にせなければ居られなくなって来るのです。
 ところがややもするとです、只拝んでさえおれば、お参りさえしておれば、お取次頂いて日々お願いさえしとけば、こちらは楽にしとっておかげが頂けると云った様な私は考え方がです、今の子供達が一生懸命お祈念しよるとを見てからね、こげんしてあなた一生懸命十二時から拝みよる。
 これはもうこんなことじゃ、朝ん間は起きりゃすまいし、学校に遅れる様なことはなかろうか、もうこがしこ一生懸命御祈念しよるけん、もう勉強だんサーッとしときゃええ位に思うとりゃせんじゃろうかと云う気が致しました。
 勿論そういう事があってはなりませんけれどもです、そういう傾向があるです。信心の熱心な人はもう仕事は投げうってしまって、神様神様と云う様な生き方をする様な人もあるです。それは嘘です。
 それこそ家業の行にいよいよ今迄五時間働きよったのは六時間働かせて頂くことが有難いと云う様になって来なければ本当な事じゃありません。
 我が心が神に向かう。そういう有難い心で仕事に向かうならば、もうそれは神に向かうたも同じ事です。生神とはここに神が生まれると云う事であってと、私共が無条件に神様へ向かうた時、無条件で御用さして頂いたときに頂ける心、即私は生神の誕生だと思います。その誕生された生神様をいよいよ育てて行こうと云うのが精進であります。
 ために最近云われますところの大祓信行と云った様なことはです、頼まんならんからと云った様な事ではない。日に十巻なら十巻大祓をもう無条件で、もう只神前が離れたくない程有難くなる、その信行を楽しみにさして頂く。そのひとときだけでも我が心の中に神が生まれられる状態になるのです。 有難いなともうこれは訳が分からんなりに有難くなるです。無条件だからです。そういう稽古を積んで行かねばなりません。
 皆もその通り此方のことを生神生神と云うけれども、皆もその通りのおかげが受けられると仰せられるのは、今日私が皆さんに聞いて頂いた様な行き方をさせて頂いて初めてその通りのおかげが受けられる。私共も生神を目指して行くことが出来る。そしてこれが成程生神の誕生であろうかと自分の心にそれを感じさせて貰えれる。これが生神のしるし、云うならわが身は神徳の中に生かされてあると云うその神徳と私共が一つになる。
 そういう私は状態を生神の状態だと思います。ですからここのところの誰でも生神になれれるんだ。いえ私達は生神様にならんでちゃよかとまあ云う様な人が多いですけれども、成程生神と云うところまでは仲々また私共がまあ一生掛かっても出来ることじゃありませんでしょうけれども、それに向かって進んで行くと云う生き方をさせて頂くときにです、わが身は神徳の中に生かされてあるという喜びに浸らせて頂くことが出来ます。今迄感じ得なかった事の中にそこに神様の、所謂御恩恵の中に私共が浸って居る喜びをまた感じて行くことが出来る。
 それには私共が神様の働きに参画させて頂くと云うことは、そのまま私共の働きに神様が参画して下さる。それを昨日大和さんの御用の例で聞いて頂きましたね。
 私共が参画さして貰うと云う事はそこには神様が参画して下さって居るという事実をです、日々体験して行く。それを分かり、それを感じて行く生き方。
 私共が云うならそういう神様のお喜び頂けるような御用に無条件、又は真心を持って参画させて頂く時に、神様が私共の手になり足になる様にして、昨日大和さんの例ではないですけど、人を使わしめておられる、お使い回しを頂いて居る。日頃なら二日間かかったところを半日で済んだと云う様なおかげを頂いて居る。
 神様が手を掛けて下さった。神様が参画して下さってある。だから私は合楽と云うことはです、神様と氏子とが拝み合うていく、ああ御苦労様でしたと、私共が神様にお礼申し上げると、神様が氏子にまた御苦労さんだったねと、云うて下さるお礼の言い合えれる世界を合楽と云うのです。
 合楽を目指すと云う事はだからそのままです、生神を目指すと云う事に繋がるです。
 本当に我と我心が拝みたい。我と我心を拝めれるような行き方、それはもう私共の心の中に誕生して下さる神様を拝んで居ると云う事になるのです。
 これは信心を頂かなければ分からない世界。信心を本当に極めさせて頂こうと精進しなければ頂けない境地。信心の無い人達に云うたら、もうそれこそびっくりするでしょう。神様が誕生して来なさる。生神になる稽古だなんて云うたら・・・けれども今日の話を聞いて下さった皆さんが成程と合点がいったならです、生神とはここに神が生まれると云う事だと、その生まれて見えた神様をいよいよ育て上げさせて頂くと云う精進、そういう精進を私共は信心生活と云う。
 様々な日々の生活の中から、いよいよ疑いを離れて真の大道を仰ぎ見よ、我身は神徳の中に生かされてあると云うその事実をです、元にしていよいよ生神の誕生を願うて行く信心にならせて頂かにゃならんと思うですね。 どうぞ。